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急行列車コミュの急行列車の寝台車

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急行列車の寝台車といえば代表的な形式をあげるとA寝台車はオロネ10。
B寝台車はオハネ10、オハネ11、オハネ12というのがあった。

A寝台車=プルマン式で喫煙室兼談話室付き。
B寝台車=片廊下式で詰め込み構造の簡易寝台車。

急行列車の全盛期の頃は東海道・紀勢・四国連絡・山陽・山陰・九州・北陸・中央西・上越・羽越・信越・東北・常磐・奥羽・北海道の各線に寝台車を連結した急行列車が多数走っていた。

コメント(26)

急行の寝台では「津軽」(仕事で)、「大雪」「利尻」でいずれもオハネフ12かスハネ16。
幅52cmなので早く寝るの勝ちでしたね。「利尻」では発車前から寝付いて終着まで爆睡だった事あります。
94年に「銀河」を利用しますがこの時はオハネ25の時代でした。
変わり種としては74年3月の小樽ー釧路間の423レ(当時「からまつ」の愛称なし)のスハネ30でぶどう色にB寝台表記でした。

唯一乗車していないのが20系。急行寝台は旧客のみ利用。
特急寝台は14,24,25,583系が同じ区間に運転されている場合多いので選択出来るために当然20系は敬遠していました。
>>[001]
カメラのアップ有り難うございます。
寝台特急全盛期の頃の、山陽本線は全形式が揃っていたのは有名でした。それだけでなく夜行急行列車も多数寝台車連結していました。
宮崎は新婚旅行のメッカといわれて有名で、今じゃ考えられませんでした。
急行列車の寝台車退潮が始まったのは、昭和47年の辺りで☆さくら、☆みずほ、☆あさかぜ(1往復)、☆あかつき(一部)に導入され、そこで浮いた20系を利用して出雲、瀬戸、つるぎ、ゆうづる(急行十和田)を特急列車格上げした所からです。

結局の所特急列車乱造の原因をあげると、国鉄が昭和33年の昼がこだま、夜があさかぜを基準にしているからだといえます。
寝台急行列車で国鉄最後まで残存した列車は以下の通りである。
銀河(東京〜大阪)。
かいもん(門司港〜西鹿児島)。
日南(門司港〜宮崎)。
※宮崎〜西鹿児島普通列車。
だいせん(大阪〜倉吉)。
※倉吉〜出雲市普通列車。
きたぐに(大阪〜新潟)。
※米原経由。
ちくま(大阪〜長野)。
※名古屋経由。
能登(上野〜金沢)。
※長野経由。

まりも(札幌〜釧路)。
大雪(札幌〜網走)。
利尻(札幌〜稚内)。
僅か10往復しか残らない位に直行旅客が大概にして航空機・フェリー・高速バスに転移が進んだのが解る位である。

残った10往復にはある種の共通点がある。

銀河=ビジネス需要が多い。

かいもん・日南=九州での夜行需要(鹿児島・宮崎)がある。

まりも・大雪・利尻=北海道の昼の特急列車で時間(5時間〜6時間)かかるから夜行列車のメリットが大きい。

だいせん・ちくま・きたぐに・能登=新幹線+特急列車のアプローチが悪い上に寝台特急列車が重複していないことや他の交通手段がないからである。
もう1ついけないのが、料金体系で特急寝台車と急行座席車の料金の開きが¥8000近く開きがあるのと、もう1つは特急列車と急行列車はスピードの関係から目的地に便利な有効時間帯に差があるわけだから論外である。
国鉄末期は特急列車と急行列車(北海道&九州)は急行銀河の寝台車が二段化が進んでいるのは、それだけ輸送力が2/3に減員したのが解る位である。

三段式で残されたきたぐに、だいせん、ちくま、能登は本州で比較的需要のあった所だといえる。
急行列車のブルートレインは寝台車を連結した新系列の客車急行で以下の列車があげられます。
北海道地区=まりも・利尻・大雪・はまなす。
東日本地区=十和田・新星・津軽・天の川・能登・妙高。
西日本地区=銀河・きたぐに・ちくま・だいせん。
九州地区=さんべ・かいもん・日南。
北海道地区は札幌を基準に考えると釧路・稚内・網走・青森。
東日本地区は上野駅を基準に考えると特急列車との兼合いから十和田は盛岡〜青森、新星は仙台、津軽は山形〜秋田、天の川は新潟〜酒田、妙高は長野〜直江津、能登は富山〜金沢。
西日本地区は大阪駅基準で考えると銀河は関東、きたぐには北陸・越後、ちくまは信州、だいせんは山陰方面。
九州地区はさんべは島根、かいもんは鹿児島、日南は宮崎というイメージが出来る。
急行の寝台料金は客車三段式で\6200だから特急の寝台料金は客車二段式で\9000だから割安とはいわないけど、新幹線と比較したらそれ程高いともいえないともいえます。
銀河は乗ったことがあります。受験の前の日に乗ったので、疲れて本番で寝るという悲しい記憶が…。
さんべやかいもん、日南には乗ってみたかったです。さんべは昼行、かいもん、日南は座席車しか乗ったことがないので、寝台車に乗りたかったです。
>>[10] 凄い体験だなと思いました。
急行銀河の誕生は昭和24年だから団塊の世代を象徴する列車だといえます。
急行銀河は昔から特急待遇の急行列車だともいえます。
>>[10]
 〔銀河〕のA寝台は快適でしたよ♪
>>[12] A寝台は値段が高いから手がでませんでした。
在来線の昼の特急列車のグリーン車レベルだといえます。
復刻版時刻表で寝台料金を比較すると昭和43年は客車三段式が下段¥1000でした。
昭和53年は客車三段式が¥3500でした。
昭和63年は客車三段式が¥5000だから常軌を逸した値上げであることやもう1つは昭和43年は電車寝台が導入された時であり、昭和53年は★=客車三段式、★★=電車三段式、★★★=客車二段式で区分された時代。
昭和63年は客車二段式がポピュラーになり逆に客車三段式が珍しくなった時代でもあるといえます。
昭和53年の時のA寝台プルマンは上段¥7000で下段¥8000の時代だったことからして、まだ特急・急行列車にもA寝台が多くあったのと個室寝台は二段式寝台だった特急はやぶさ・富士・博多あさかぜ・浜田出雲のみでした。
昭和50年代になると急行列車の寝台車は地域的に大雑把に行くと東日本はA寝台車連結なのに対して西日本は三段式B寝台のみの編成になりました。
電車三段式は速達性が要求される新幹線連絡の山陽線系統と北海道連絡の東北本線系統は相変わらずといった所で二段式寝台はやはり西日本系の特急列車のみで特急紀伊のみが急行列車並の待遇で三段式寝台のみといった所です。
急行列車の寝台車の連結が中止されたのは中央東線・磐越西線のような夜行列車の距離として短い上に特殊輸送や波動輸送の多い線区。
次に山陽本線や東北本線のような寝台特急列車が大所帯の線区である為に輸送力列車の方が必要な線区である。
東北本線系統の八甲田、十和田の一部はこの典型的なケースであり昭和51年の常軌を逸した値上げ前後に寝台車連結を廃止している。
昭和52年頃、十和田1往復に20系に置き換えましたがB寝台が5〜6両連結していた割にはガラガラでした(友人のみたまま)。はくつる、ゆうづるもシーズン以外はガラガラでしたので大幅値上げがきいていますね。
昭和57年11月改正で津軽が20系に置き換わりましたがこちらもサービス改善が裏目に出て増えた寝台はガラガラ、座席車が混雑したのは有名なお話しですね。暫定的にはB寝台車2両を座席使用させたようですが。
>>[17] やはりいけなかったのは昭和51年の大幅値上げだといえます。
もう1つ急行十和田の20系化は東海道本線系統の特急列車の二段式寝台化による余剰車両の有効活用の目的があったといえます。
実はこれが逆にいえば特急ゆうづるの二段式寝台への取替の理由になるといえます。
値上げによって盛岡〜青森での需要からして二段式で運び切れるだけのしか残っていなかったといえます。
急行津軽に関して座席車が混雑した原因は急行出羽がなくなった上に座席車が3両に激減したことが原因なのは有名です。
津軽が20系客車にした原因は十和田の一部廃止になって余剰になる上に出世列車の伝統からA寝台連結が必要条件だったことがあるといえます。
いずれも国鉄分割民営化前までに廃止された短距離の寝台列車である東の急行新星・妙高と西のはやたま・山陰は寝台列車が成り立っていたのを時刻表から調べて見ると似たような条件があるといえます。
急行新星・妙高はターミナル駅である上野駅で自由席だと並んで待つこと自体からして当たり前の時代だった上に寝台車は指定席の機能を合わせ持っていることや千葉方面から快速の最終が東京駅到着するのに遅い時間で間に合う列車がギリギリのラインでのあることや京成上野駅から上野駅への乗り継ぎに意外と時間が掛ることや、当時の特急ひばり・あさまは19時台がラストだからです。
西のはやたま・山陰でも似たようなことがいえて天王寺駅・京都駅が大阪の中心であるキタから不便な所にあるのと、さらに急行きのくにはデーゼルカーだから時間掛る上に半数が白浜で折り返してしまうのと特急あさしおは鈍足特急といわれてその道で有名な列車である上に鳥取ヘ行く直通列車が少ないといった条件があるからである。
やはり似通った条件が揃っているといえる。
急行列車の寝台車は寝台特急の寝台車のお古に加えて臨時の特急列車で使い物にならない座席車を貰い受けた結果として実現したのが急行列車のブルートレインであるといえます。
急行銀河・新星・天の川の20系客車化の背景には寝台車のB寝台の幅が旧型車と変わらない52センチ三段式であるため特急列車としては使い物にならないから急行列車ヘ格下げ使用したといえます。
20系固定編成の急行列車で最後まで残った急行列車で有名だったのが大阪〜出雲市(下りは大社)のだいせんである。
だいせんはB寝台が6両、A寝台改造の座席車3両に電源車までついたフル編成でした。
東の急行妙高は上野〜長野、西の普通はやたまは天王寺〜新宮は国鉄末期まで残った短距離の寝台列車で有名で東の妙高は14系寝台車3両なのに対して西のはやたまは10系寝台車2両という所に差がありますがこの両列車には意外な共通点がある。
東の信越本線の特急あさまが上野〜長野が3時間24分、西の紀勢本線の特急くろしおが天王寺〜新宮が4時間1分と距離の割に時間が掛かるから意外と夜行需要がある。
夜行列車としてはせいぜい5時間〜6時間のレベルである。
違いは急行妙高が直江津まで寝台車が普通列車で直通しているのに対して普通はやたまは新宮で寝台車を切り離してしまうのが大きな違いである。
この列車の意外なる共通点がこれで東の妙高はターミナルが上野駅だから千葉方面からのスカイライナーのほぼ最終便に接続しているのに対して西のはやたまはターミナルが天王寺駅だから名古屋方面からの近鉄特急のほぼ最終便で鶴橋まで行って大阪環状線の天王寺まで行けば意外と不便がないという点でも似ている。
待たずに指定席が確保出来て横になって移動出来る寝台車の需要はこういう所にもあるといえる。
しかも普通はやたまは名古屋からだと紀勢本線は不便極まりない上に近隣に近鉄特急がある。
だから東の妙高、西のはやたまは夜行列車として厳しいダイヤに関わらず意外と寝台車の需要が多かったのが解る。
急行列車の寝台車廃止で1番大きいのは昼行優等列車が4時間の辺りの運行区間が1つの目安だといえます。
季節急行立山に関西〜九州で余剰になった寝台電車有効活用の一環として寝台車をセットした所で客がつかなかったのは大阪〜富山が特急雷鳥が所要時間が4時間の上に運転頻度が高いからそれ自体にムリがあるといえるのともう1つは寝台料金が割高な所にも原因があるといえます。
特急紀伊・出羽は急行紀伊・鳥海の格上げで誕生したブルートレインでしたが残念ながら寝台特急列車としての評価は?マークですが見方を変えればそこそこだったといえます。
この両列車の共通点は新幹線と接続する優等列車の本数が少ない上に東京からの直通がそれしかないから寝台列車としてそこそこの活躍が出来たといえます。
もう1つは昭和57年の古本雑誌のレポートで急行列車の三段式ハネ(B寝台車)は女の子の利用が多く周遊券族の男たちはハザで雑魚寝する層が多く家族連れはハザシ(普通車指定席)などが多かったとありました。
その当時のホテル自体からして田舎だとそんなにあるわけでなく旅館などは女の子の一人旅などを色んな理由をつけて敬遠する上にかといって過酷な条件の移動体力のない女の子にとって横になって移動出来る上に割安なイメージに弱い女の子の急行列車の寝台車はそういう意味で強い味方でした。
急行列車の寝台車が三段式(★)が重宝されたのは、料金が割安だったことに加えて、輸送力が大きいことが、最大の長所だったからだといえます。

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