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江利チエミコミュの江利チエミのマイ・フェア・レディ

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初演昭和38(1963)年、再演39(1964)年...
そのためVTRなども残っていないようです。
http://www.youtube.com/watch?v=pxPMOnylMGI

マイフェアレディ初演に先立つ昭和36年・37年の東西コマ劇場で、当時としては画期的な公演が行われました。
江利チエミ特別公演「チエミのスター誕生」...
  ※トップ画像/2枚目がその有料パンフレット/3枚目は閉館間際の新宿コマ劇場

今では誰もが座長公演をしますが、この舞台公演で歌手が座長を勤めるのは当時としては画期的なこと...です。
近年美空ひばりがパイオニアだったという間違った歴史が語られています。しかし美空ひばり新宿コマ「女の花道」公演は39年です。(川口松太郎先生にひばりママがジカダンパンをして本を依頼。ひばり離婚のタイミングにあわせ、離婚記者会見もコマで行いました。女一人芸に生きる...という内容のお芝居。ここにも「ひばり流の公私混同的な売り方=ママのアイディア」がいかんなく発揮されています。)
それ以前にも「浅草国際」など、ロング公演はありましたがこれは寸劇と歌謡ショウの構成。
第1部 お芝居 第2部 ショウ(一部二部の順序は入れ替わる場合も)という構成でむしろ芝居に重きを置く(時間を含め)1月のロングラン公演というのはこの江利チエミ特別公演がルーツです。
この座長公演の成功は次のステップへとチエミさんが進むきっかけを作ります。

東宝の大プロデューサーで首領といわれた菊田一夫。彼は日本にミュージカルを根付かせたいという構想から、ジュリィー・アンドリュース主演でブロードウェイのロングラン記録も更新していたヒット作「マイフェアレデイ」の上演権を獲得します。
当初、東宝の舞台でのミュージカルはチエミには和モノ、雪村いづみには「赤毛もの」で...といった構想を持っていたようにも推察できます。
当初イライザ役は、雪村いづみにオファーが...
しかしその時いづみさんは最初の夫/ジャック・セラーの故国アメリカで、赤ちゃんだった長女マリアさんを胸に抱き...女性としての幸せを噛み締めていたとき。
彼女は丁重に菊田先生に辞退を申し入れます。
そして...「イライザには親友江利チエミを紹介します。イライザを演じられるのは江利チエミをおいて他にありません!」と手紙を菊田あてにしたためます。

昭和38年東京宝塚劇場、主演/江利チエミ 本邦初演ブロードウェイミュージカル
 「マイ・フェア・レディ」が幕を開けることになります。

当初はチエミさんも悩んで悩んでこの役を受けた...と思います。
また、世間の前評判も...
ハスキーなアルトのチエミがソプラノのジュリィ・アンドリュースの当たり役をするのはミスキャスト...とか、興行第一主義の安易なキャスティングなどとたたかれます。

しかし、実際の舞台が幕を開けると...
初めてのミュージカルにお客さんのほうにむしろ照れが見受けられるも、初日には数度もアンコールの拍手がなりやまず、出演者はみな感激の涙で前が見えないほどの大成功を収めます。
チエミさんはハスキーでアルトな声ということを、むしろ武器にかえ「待てばいいのよ」などダイナミックな歌唱でお客のハートをつかみます。
この芝居は、最初から江利チエミの為に書かれた物語じゃないのか?...と錯覚させるほどに。

この時の様子を次の本から読み取ることができます。
「戦後」〜美空ひばりとその時代 著/本田靖春 講談社 より...
>・・・チエミは絶頂期へと向かう。62(昭和32)年には新宿コマの「スター誕生」で芸術祭奨励賞を、
日劇の「チエミ大いに歌う」では第8回テアトロン賞を受賞し、東京宝塚劇場の「マイフェアレディ」でゴールデンアロー賞に輝いた。
このマイフェアレディを演出した菊田一夫は、初日の幕が下りたときに、手放しで泣いたといわれている。
それが菊田の自己陶酔ではなかったのは、たまたま来日中のロバート・ヘルプマンがチエミを激賞したことで証明された。
ヘルプマンといえば、英国「ロイヤル・バレイ団」の出身で、映画「赤い靴」「ホフマン物語」などの振り付けを担当した、世界でも有数のミュージカル・デレクターである。
別の目的で来日したのだが、チエミに国際級の折り紙をつけたのである。
「私はロンドン、ニューヨークをはじめ、あらゆる『マイフェアレディ』を観てきた。東京のももちろん。江利チエミは、どこの国のイライザにもひけをとらない。素晴らしいミュージカル女優だ」
江利チエミ株はこれで急騰した。・・・

この当時、日本テレビの「テレポール委員会」が実施した世論調査の推計も引用しておきます。
ファン数の対比
 ひばり:163万人 チエミ:135万人

女王ひばりとの差は肉薄します。

活動範囲は レコード歌手 芝居公演の舞台 歌のステージ 映画...
そしてすでに、高視聴率のTBSドラマ「咲子さんちょっと」でもお茶の間の人気者になっていました。
歌手が連続ホームドラマの主演をする...これもパイオニアです。
そして、昭和38年大晦日・紅白歌合戦でも「歌手としてはじめての司会・キャプテン」も勤めます。

歌手としても素晴らしい仕事をしています。
デルタリズムボーイズとのジョイントコンサート...カウントベイシー・オーケストラ日本公演で「日本歌手の代表として」の共演...チエミの民謡集LPの続編のリリース...カールジョーンズ氏との「ジャズLP」のリリース...

まさに絶頂期を迎えた...といえます。

マイ・フェア・レディの原作は、イギリスの作家で機知に富んだジョージ・バーナード・ショウが1916年に発表した戯曲「ピグマリオン」です。
この物語...オウィディアスの「転身物語」が話の元になっています。
キプロスの王「ピグマリオン」は、白い象牙から美女の人形をつくります。王はこの人形に恋をして女神に魂を吹き込んで欲しいと懇願します。そして願いは聞き届けられ2人はめでたく結婚を...

この「ピグマリオン伝説」は後世においていくつかのバリエーションが生まれます...
その中のひとつがショウの「ピグマリオン」...ただ、彼のピグマリオンは元のストーリーと反してハッピーエンドでは終わらない。
当初ショウは自身の作品の映画化は決して認可しなかったのだが、ハンガリー生まれの大プロデューサー・ガブリエル・パスカルと知り合い、彼に全作品の映画化権を与えました。パスカルは1950年「ピグマリオン」のミュージカル化を計画、ラーナー・ロウに協力を依頼しますが、ショウもパスカルもあいつで亡くなり、しばらく棚上げになってしまいます。
しかし、1954年遺族の許可を得て、55年CBSから40万ドルの資金を受け、56年3月15日初日の幕をあけました。原作と舞台の差は、結末をハッピーエンドにしたところです。
イギリスの階級社会への痛烈な批判をこめて作り出されたブロードウェイ・ミュージカル「マイ・フェア・レディ」は結局1962年9月29日まで、実に2717回の続演公演を打ち立てる大ヒットとなりました。

この「マイ・フェア・レディ」というタイトルですが、高級住宅地「メイ・フェア」を、「マイ・フェア」と発音する(ロンドン・コクニー訛りを話す...サッカーのベッカムもこのコクニー訛りが抜けないとか)下層階級の女性の物語であることを題名に表している...のだそうです。

舞台の主演は、ヒギンズ教授にレックス・ハリスン...映画・演劇界でイギリスを代表する演技派スター。イライザのシュリィ・アンドリュースは当時新進スターで54年ミュージカル「ボーイフレンド」のブロードウエイ上演に初出演のために渡米したところを大抜擢されたのです。
舞台はロングラン...当然、映画化の際の主演もジュリィ・アンドリュースに...
しかし、イライザは(歌は完全に吹き替えの)オードリー・ヘップバーンになってしまいます。
この裏には...ジュリィがハリウッドのスクリーンテストを「なにを今更!」と断ったのが原因だったとか...
しかし、彼女は「メアリー・ポピンズ」で見事、アカデミー主演女優賞を獲得...
8つのアカデミー賞に輝いた映画「マイ・フェア・レディ」で、主演女優賞のみを逃したオードリーは次の作品「おしゃれ泥棒」で更にゲッソリとやつれて...その消沈は非常に大きなものだったそうです。
このイライザ役を厳しい選考争いから勝ち取った時、オードリーは歓声をあげながら家中を飛び回った...と伝えられています。
「ジャンヌ・ダルクよりもクレオパトラよりもやりたい役だった」とか...
オードリーは「ティファニーで朝食を」で窓辺でギターを爪弾きながら「ムーンリバー」を歌うシーンがありましたが、江利チエミのアルトなんて目じゃない位の低いハスキーボイス...最初から歌は吹き替えになるということは必然だったはず!
彼女の大抜擢は当時の「ヘップバーン人気」にあやかる...という部分も見え隠れするような気がします。
この「マイ・フェア・レディ」は後に「プリティ・ウーマン」としてリメイクされました。
1963年(昭和38年)9月、江利チエミマイ・フェア・レディ初演...
翌1964年にはオードリーの映画版が日本で公開されました。
東京宝塚劇場と同じ建物にあった「スカラ座」で封切りされたと思います。(再演と同時期の1月だったかも知れません...?)

江利チエミ版の舞台は大好評...
1964年1月には東京宝塚劇場での再演、5月には梅田コマ劇場でも再演されました。やはり、日本にミュージカルが本格的に根付いたのは、この「マイ・フェア・レデイ」によるところが一番大きかったといえると思います。
原作には「思いっきりなイギリス階級社会」への批判が根底にあったこの作品ですが、江利チエミという決して美人ではないけれどドル箱の庶民派スターが演じたことで、まずチエミ目当てのファンが会場に足を運んだということ。
また当時はまだまだ馴染みのなかったミュージカルを、非常に「親しみやすく」「とっつきやすい・わかり易いものにした」...という点で大きな成功に繋がったのだと思います。

また、日本人にとってついつい応援したい気持になる「判官びいき的な部分」...この作品の成功の最大の要因であったと思います。
江利チエミというキャラは「男性からも女性からも支持される大看板」であったこと...これも馴染みの薄い赤毛ものミュージカルで2ケ月のロングラン公演の集客を満たした大きな要因であったと思われます。
イライザが美空ひばりが...ってことは「当然考えられない」ですが、ひばりファン...とりわけ熱狂的な女性ファンが多い。これは彼女のある意味「中世的な魅力」によるものと思いますが、会場にこの「あまりに熱狂的な女性ファンが多い」ことは、「宝塚歌劇」同様、「おとなしいお客さん」「男性客」には「いたたまれない状況」を生み出します。
私は子供なりに一生懸命江利チエミ公演は通いつめました。チエミ熱ほどの熱心さはありませんでしたが美空ひばり公演にも数回足を運んでいます。
また他の舞台もいい作品は観にいきましたが、チエミ公演は思えば「男性客」が他の公演に比べ多かった気がします。
またお客さんも「ジェントル」でマナーがイイ...スマートに感じられました。
美空ひばりの舞台公演は「美空ひばりショウ」になるのに対し、チエミ公演は「ショウはショウ」「お芝居はしっかりお芝居!」というものでした。
※決してひばりさんは大根役者ではありませんでした。
女優としても一級の腕をもっていましたが、あまりに「美空ひばり」というキャラの濃度が濃いのだと思います。女優としての評価は彼女の場合二の次になってしまう...と感じていました。

舞台「マイ・フェア・レディ」の成功を受け、1963年に娘マリアさん、夫ジャック・セラーさんと共に生活の基盤を日本に戻した雪村いづみさんを主演に「ノー・ストリングス」が64年に東宝ミュージカル・ブロードウェイもの第2弾として上演されました。
(共演:高島忠夫さん 脚本は菊田一夫先生)
しかし、この題材は「人種差別」という、すこしばかりストレートに難しい物語であった為に、興行的には失敗に終わりました。

チエミさんはこの後、百万人の天使(新宿コマ)、アニーよ銃をとれ(新宿コマ・11〜12月ロングラン)、キス・ミー・ケイト(東京宝塚)と、ミュージカル女優の道も突っ走ることになります。

コメント(7)

新宿コマを観客で満杯にしたのはチエミさんが最初、ということはあまり知られていないのですね。オープンしたものの、がら空き状態だったのを、「スター誕生」で記録を作ったのです。
菊田一夫は、とにかくチエミさんが大好きだったようです。
プログラムに
「江利チエミが舞台にでる。これは大変なことである」と書いておられましたね
美空さんとは大喧嘩されたり 菊田さんはなかなかの暴君でもあったとか

大劇場の江利チエミ 小劇場の森光子の成功 30年代に菊田さんが残した大きな足跡と思います。
思えば紅白も森さんからのバトルタッチでしたねexclamation ×2

「ノーストリングス」は芸術的には成功だと思いますが!
菊田一夫さんも、リチャード・ロジャースがブロードウェイで
革新的に公演した面を重視したものと思われます。
キャストも、オペラの大御所藤原先生初め、現・水谷八重子、
そういえば、この作品で前田美波里がデビューしましたネ。
芸術座の小屋にはピッタリの作品でした。
「マイフェアレディ」「ノーストリングス」共、相手役不足
という個人的な感じを持ってはいますが・・・
ミュージカル俳優がいなかった と言えますね。
「ノー・ストリングス」は観ていませんが、当時の舞台写真をみればいづみさんに適役だったはず。
いづみさんにはもっとミュージカルで活躍してほしかったですね。
「アプローズ」もいづみ盤はみてないし。
「クッキング・ガール」は観ましたが。

マイ・フェア・レディも当初は森繁さんがヒギンズ役。もしそうだったら、ちょっと毛色の違うマイフェアになっていたかも。

それにしにても、オードリーは可哀想でしたね。これ以後、ぐっと老けましたものね。CGやらなにやら、映画ならではの特撮があるのに、歌が本人が歌えないからこそ、映画でできるマジックが映画ならではの魅力のはずですが。
マーニ・ニクソンのおばちゃんもあんな裏話なんかしちゃって、いけませんよね。
森繁さんはどうも 痛風 と嘘ついて勝算のないミュージカルを降りて フレディの高島さんにお鉢が回ったとか。

しっかり様子見てからバイオリンをやりましたねexclamation ×2
>マーニ・ニクソンの名や容姿を知る者はほとんどいなくても、その歌声はミュージカル ファンであれば誰でも一度はどこかで聞いたことがあるはずである。それはニクソンが、『王様と私』、『ウエスト・サイド物語』、『マイ・フェア・レディ』などといった、ハリウッドミュージカルを代表する名作の中で、主演女優の歌声をすべて吹き替えているからである。

しかしその歌声はハリウッドで最も知られたものでありながら、ニクソン自身はとなると、その姿はおろか、名前すらもがエンドクレジットに書き込まれることがなかった。そのため『サウンド・オブ・ミュージック』(1965) ではファンの声がスタジオを動かし、ニクソンは初めて修道女役の一人にキャステイングされて、晴れて銀幕でその歌声を本人の姿とともに披露することになった。

この『サウンド・オブ・ミュージック』の撮影現場で、ニクソンに初めて会った主演のジュリー・アンドリュースは、ニクソンが彼女に遠慮してやりにくくなるようなことがないよう気遣い、自らニクソンのもとに歩み寄り、力強い握手をしながら、「いつも素晴らしいお仕事をしていらっしゃいますね」と親しく話しかけている。『マイ・フェア・レディ』でニクソンが吹き替えたイライザ役のナンバーは、アンドリュースがブロードウェイのオリジナルキャストととしてそのスタイルを確立したものだった。しかも映画化にあたっては、ワーナーブラザーズはハリウッドでは無名のアンドリュースに替えて、オードリー・ヘプバーンを主役に起用している。かわりにアンドリュースはディズニーの『メリー・ポピンズ』(1964) に主演して翌年のアカデミー主演女優賞を受賞、一方『マイ・フェア・レディ』に主演したヘプバーンは吹替えが祟って同年のアカデミー賞ではノミネートもされないという、複雑な経緯があったからだ。

ところがニクソンは、アンドリュースとは実は以前にも競演していた。『メリー・ポピンズ』のナンバーのひとつ「楽しい休日 (Jolly Holiday)」で、アニメ化されたガチョウ数羽の歌声を担当したもの彼女だったのである。

ニクソンはまさに「ハリウッドの声」であった。

-------------------------------------------------以上ウィキさんより

吹き替え・・・その事実は口外禁止の一項が契約書にあったそう。しかしマーニ・ニクソン...
オードリーがオスカーを取れなかった原因は「自分がわざと吹き替えの事実をバラしたせいだとみんなが言ってる」...云々と。

なかなか自己主張の激しい方だったとか...

対してジュリー・アンドリョース...
Q「この受賞でオードリーに差をつけましたね。ご感想は?」
A「私は自分の演技力が評価されたと思いたいですね」

A「同情で授けられたのか実力で勝ち取ったのかわかりません」
A「・・・やはり同情かしらね。」

ジュリーのなんと奥ゆかしいこと... 

twigさん...私は(私も)A・ヘップバーン、ジュリー・アンドリュースの大ファン!
そしてtwigさん/HSさん...雪村さんにはもっともっと「ミュージカル」演じてほしかった...と思っています。マーケット...熟していなかったのだと思います。
いづみさんはいつも一足早い...それが魅力ですが、残念でもあります。

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