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羽仁五郎コミュの羽仁五郎botへのTwitter_自然法と事実の法、そして人民主権確立のエンジンについての考察(2)

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http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1968644237&owner_id=38378433の続き)

【7】 では、羽仁五郎の場合はどうか。

羽仁五郎は唯物論者として登場し唯物論者としてのステータス、アイデンティティを頑固に貫き通した。
しかし晩年の羽仁五郎は決して単なる唯物論者ではなくなっている。
今、ソ連がおかしな事になっていると言っても我々の生きた時代はマルクス主義が救済の希望の光であったのだという述懐をしている。

そして現代を、独占資本の運動として、その運動の現象として見つめている。
そこの現象を分析し、そこに論理を見出し、ここを蹴飛ばせばあそこが飛び出るという事実の連関を「論理」として、日本人民の前に提示している。

では情緒的な価値に関してはどうか。

人間が自己抑圧をし、孤立化した情緒的な価値も、疎外(本来人間のためにある人間が作り出した概念やモノ、仕組みが、人間の外に出て、外から逆に人間を抑圧すること)も、こうした独占資本の回転運動の結果として見事に説明している。

ことに「君の心が戦争を起こす」の本で中学生や高校生にもわかるようにそれを平易な言葉や例で丁寧に書いている。

では、自然権のようなもの、基本的人権というものを、天賦人権というものを
事実として、即ち、唯物論者の立場(価値二元論でない立場、唯物論という自然主義の立場で)、天賦人権の実在を論理的推論で正しいと認めたか?

価値二元論の「価値」という視点ではなく、羽仁五郎は「事実の法」、すなわち、「事実」としている。

羽仁五郎は 価値二元論という言葉を知っているのか知らないのかわかりませんが、
一切この概念は出てこない。そういう意味では価値二元論を認めてない。

頑強に、事実としての自然権、ア・プリオリに、即ち先験的に自然権があるものとしての自然主義(=価値一元論)の立場だろう。

羽仁五郎は、自然権、自然法の代わりに、事実の法という言葉を編み出した。

自然法が自然法として人類に歴史的に登場したのは、事実として「事実の法」があるからだと。

つまり、どんな小さなネコでも犬でも殺そうとすれば抵抗する。
それが生きとし生けるものの実相だと。生命あるもの実相だと。
(※すなわち、抵抗権の実在ということだ。)

アウシュビッツで無抵抗に死んで行った人々は一回でも中で反乱すべきであったと。
それが生物としての当然のことだと。
(※すなわち、抵抗権は「事実の法」だという主張だろう。)

羽仁五郎の視点でみれば、
今の日本列島で沈黙して殺されて行ってる日本人民。311にしろ、発がん性物資にしろ、遺伝子組み換えにしろ、ホルモン剤にしろ、ワクチンにしろ、放射性廃棄物を食べさせられていることにせよ、20ベルシーベルトの学校で運動させられてきた子供にしろまさに無抵抗に殺されつづけるアウシュビッツだ。



自然権を価値として、帰依する態度で主張するのではなく、どんな小さな生き物でも殺される時には抵抗する事実の法があるから自然権、自然法があるのだという説明はこれはこれでかなり説得力がある。

人間はだれしも幸福に生きたい。
幸福を追求する権利を持ちたい。
だれしも自由でありたい。
だれしも自然権というところのものを保障されて生きたい。
この生命の事実があるからこそ自然法、自然権が発見されたわけで、
事実の法として基本的人権も自然権のあるとする羽仁五郎の説明は説得力がある。

唯物論出身の羽仁五郎はれっきとした価値一元論(自然主義)だ。

「事実の法」という「事実」から、「自然権」すなわち「天賦人権」という「価値」を導出している。

これを批判的に見るなら。
社会科学として、社会を構築するには、自然権が先か、事実の法が先かという論争を逐一してては、「事実の法」が自然権の生みの親(鶏)であっても、自然権が卵であっても、近代democracyの約束定義も、国家の約束定義も、憲法の約束定義も、人民主権の約束定義も、国家権力の約束定義も確立しない。延々と論争に明け暮れているのではないか。(※「事実」と「価値」は二元なのだから。論理的推論としては「事実」から「価値」は演繹できないのだから。)

事実の法として、自然なる人間は様々な特性を持っているのだろうが、
社会、国家というものを社会科学として整備し人民の事実の法なり自然権なりを守るには、学術用語(約束定義)がレンガの如く不可欠だ。それがなければ社会科学の建築物ができない。論理も文化も人民主権の確立した国家も構築されない。

歴史に耐えて確立され、継続、継承してきた近代社会契約の国家の約束定義を源泉とし、国家、democracy、人民主権、憲法、国家権力などなどに 人民の自然権を守るため、この一点で整合性を持った構築をすることはとても重要なことだ。

そして、論理破壊、言語破壊、価値の破壊をする言いくるめに対し、
「価値二元論」をファシズムの論理破壊からの救世主として人類が出現させたのであって、この効能は大きい。

【8】【では、事実の法という、価値二元論には反するが、非常にヒューマニズムに富んだ羽仁五郎の事実の法の視点はどう扱えばいいのか。】

「論理的推論の正誤の問題」に「事実の法」の視点を援用するのではなく、
すなわち、「事実」から「価値」を演繹しようとするのではなく、
「自然権(価値)は天賦人権(価値)としてみんなでオーソライズしたものと約束定義しましょう」という約束定義を根幹に置いたとき、羽仁五郎の「事実の法」論は人間に共感を与えるものとして援用できる。約束定義を置くことで、この約束定義の存在が事実となり、この約束定義の中の価値が前提となるからだ。

自然権(価値)を生んだのは「事実の法」(事実)であるという価値二元論に矛盾する論理的推論は、決して、近代社会契約の国家の約束定義を崩したり、自然権を崩したするものではなく、逆に、自然法、自然権の正しさを縁の下の力持ちで補強する「事実」と「価値」の関係として活用すればいいのだ。

論理的推論としてはなりたたないが、人間の情緒を通した共感としては事実として共感しうるものだ。

そして、やはりファシズムが言語を破壊し論理を破壊し人間から論理という資源を奪って人間を支配するようになっている以上、このファシズムに騙されない脳みそ、思考回路を実現することは必須であり、価値二元論で「価値」と「事実」の境界を厳しく思考をすることは、こじつけの屁理屈で思考を混乱させられないために、必須の事である。

自然法(価値)のバックに事実の法(事実)があるのだから、われわれ人民はなお一層、自然権というものをオーソライズし、約束定義として確固たる確立をし、この約束定義に混入されている自然権という価値、基本的人権という価値に、政治を還元して、国家を建設し、社会を建設すべきなのだ。

そして、社会科学として、ここを蹴飛ばせばあそこが飛び出るという事実の連関を論理として一つでも多く確立し、人間社会に生かすべきなのだ。

【10】本質定義という価値についての考察

本質定義というもの即ち価値というものは「何を目的としその為にどんな視点を選択するか」でどうにでもいえるものだが、それが価値の真実の姿だが、逆に、原点となる価値を源泉として持つことで、いい方向にも、悪い方向にもいくのだ。人民の自然権を構築する方にも人民の自然権を破壊する方向にも。

約束定義の中に、人民の個人個人の自然権を守る為という価値を、前提として組み込むことは、これは、社会、国家、世界の方向がその方向にいくことを限定するものだ。

なぜ、限定することができるのか。



およそいかなる演繹的推論においても前提のいずれにも含まれていない要素は結論にも含まれえない。これが論理上の一般準則のコロラリー(注:論理的に自然に導かれる帰結)と考えられるからである。


橋下徹元知事元市長の言説には、いつも効率ばかりで、ある前提が欠けていた。基本的人権。前提にこれがなかった。安倍晋三にもない。前提から、自然権の価値を剥奪することで、およそいかなる演繹的推論においても前提のいずれにも含まれていない要素は結論にも含まれえないのだ。

われわれ人民は、原点に、近代社会契約の国家の約束定義を持つことは必須である。それが人民主権確立のエンジンである。

(了)

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