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羽仁五郎コミュの「非合理」と「不合理」

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■四国電に想定外の衝撃=燃料費年420億円増−伊方原発の運転中止
(時事通信社 - 12月13日 21:00)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=4902642
*−−−引用開始−−−*
伊方原発3号機の運転停止の仮処分: 司法判断の意味とマグマ学者からの懸念
巽好幸 | 神戸大学海洋底探査センター教授
12/15(金) 7:00


 12月13日広島高等裁判所は愛媛県の伊方原子力発電所3号機について、「熊本県の阿蘇山で巨大噴火が起きて原発に影響が出る可能性が小さいとは言えず、新しい規制基準に適合するとした原子力規制委員会の判断は、不合理だ」として、運転の停止を命じる仮処分の決定をした。
*−−−引用終了−−−−*

用法定義を見てみよう。

広辞苑

(1)ふ‐ごうり【不合理】
道理に合わないこと。矛盾していること。筋の通らないこと。「―を改める」「―な言い分」

(2)ひ‐ごうり【非合理】
〔哲〕知性(悟性または理性)ではとらえられないこと。論理の法則にあてはまらないもの、情緒的なもの、超理性的なもの(超自然的な啓示)、反理性的なものなどにいう。非理性的。

(3)ひごうり‐しゅぎ【非合理主義】
〔哲〕(irrationalism)
 理性・悟性によって把握し得ないもの、論理的には規定しつくされないものを究極のものとみる立場。特に生命・心理過程・歴史などについてこれが主張されることが多く、また直観や体験が重視される。
 理性的・悟性的なものに対して感情的なものを重んずる考え方。非理性主義。

(4)ひごうり‐せい【非合理性】
非合理な性質。

【私見】
不合理は、その判断の基準が、情緒的価値判断か事実判断かを問わない。
情緒的価値判断は、極論すれば情緒の数だけ存在する。
その情緒的価値判断を基準にして、整合性があえば、道理に合う、矛盾していない、となる。
裁判官の情緒、社会的通年という個人の情緒の集合体としての情緒。それを基準とする。

非合理は、事実判断 対 情緒的価値判断 という対立構造において、事実判断を基準として、論理的整合性がない、という用法が主のようだ。

不も非もあらずであり、否定である。合理の否定。その意味では、非合理も不合理も日常会話言語としてはいずれも合理的でないということで大差ない。

認識目的として、理にかなっているかどうかを知ること。
そのための視点として、情緒的価値判断の基準も事実判断の基準も許容するというときには【不合理】
一方、事実判断の基準をもって判断するというのであれば【非合理】

そういう認識で【不合理】【非合理】を約束定義してここでは述べたい。

私の【不合理】【非合理】の約束定義に従えば、この裁判官の「不合理」は「非合理」が正しい。

ここを蹴飛ばせばあそこが飛び出るという事実の連関に基づいて判断しているからだ。
歴史認識というのは、ここを蹴飛ばせばあそこが飛び出るという事実の連関を発見し、(※それをここでは【論理】と定義しよう)【論理】を法則としてその論理の目で歴史を見る、すなわち、発見した【論理】で、言い換えれば現代の【論理】の視点で見ることで、こういう方向に政治を動かしたい、こういう方向に歴史を動かしたいという、分析ができる。

羽仁五郎が、「歴史は常に現代のものだ」というのはそういう意味だととらえている。
明治憲法の視点で、歴史を分析して、あの頃は「そういう視点で見ていたのだからこうなったのだ」では、眺めているだけだ。眺める論理。実践の論理にはならない。

例えば、天皇制は、非合理なのだ。不合理ではなく、非合理なのだ。

(了)

【関連資料】
●天皇制とは何か。

【羽仁五郎著「都市の論理」(勁草書房)1968年12月25日発行】 より

*−−−−−−引用開始−−−−−−−−*

天皇制の問題


日本には暴力団というものが、いまだに、また最近活発に、活動しているのですが、ヨオロッパ(※リーフ注:Europeヨーロッパ。ヨオロッパは発音に近づけた表記。以下同じ。)には日本ほど暴力団というものはないのです。しかし、ルネサンス時代に全く暴力団というものがなくなってしまったイタリアでも、ムッソリイニ(※リーフ注:【Benito Mussolini】ムッソリーニ)がまた暴力団を作ったので、いつどんな時でもおこり得るものではありますが、しかし、いずれにせよヨオロッパではルネサンスの自由都市共和政が暴力団というものを全く解決したのです。これは暴力団ばかりではなく、ハンセン氏病をも絶滅した事実など、その他いろいろなことと関連しているのですが、その暴力団というものがなぜ発生するかということも、一番端的に本質的な原因は、権力が暴力的である場合には必ず暴力団が発生するということです。権力が市民的権力になっていない場合、警察が市民警察になっていない場合、警察は必ず暴力警察なのです。そして、必ず暴力団と結びつくのです。今の日本では政治家はもちろん、丸山真男君も、暴力団をどうしてなくすことができるかということに、はっきりした見とおしをもっていないのではないでしょうか。困ったものだ、とかいうことは、誰でも言えるのです。しかし、実際に暴力団によって身辺の危険を感ずる人間にとっては、なんとかしてこれは根絶しなければならないのです。日本では、われわれが――みなさんにしてもそうですが、自分が主張することを持っていない人はいないでしょうが、それこそ一寸の虫にも五分の魂で、主張のない人間はいないのですが、しかし、ある程度まで主張していくと、それが事実として暴力団にぶつかるのです。暴力団というのは非合理な強い力です。それがいわゆる“人間の壁”となって、その前ですべての人が自分を失ってしまうのです。これは日本では特に強い。ドイツはヒットラア(※リーフ注:アドルフ・ヒットラー(独: Adolf Hitler)。ヒトラー、ヒットレルとも表記される)の時代にそういう状態におちいり、イタリアではムッソリイニの時代にそういう状態に陥ったのです。また現在イタリアになり、ことに西ドイツにはおなじような状態が復活しています。日本はその中でももっともそういう傾向の復活の兆しが強いのですが、これはよほど徹底的に考える必要がある。暴力団はどういう場合に発生するか、どういう方法によって根絶されたか、というと、現に、近代の自由都市共和制において、市民的の権力が成立した場合には暴力団は根絶された。その市民は、その市に住むことと、税金を納めることと、それから腕力を揮わないこということ、この三つの条件を要求されたていたので、腕力を揮うものは市民の資格はなかったのです。
 この近代都市の市民が腕力的権力を根絶したということは、ヨオロッパの夫が妻を殴らなくなったということと関連し、日本の夫がいまだに妻に対して腕力権を行使するとすれば、それは日本においてはいまだに暴力的権力が根絶していない事実と関連がないともいえないでしょう。
 暴力団がどういう場合に発生したか。中世の封建時代には暴力団の必要はないので、権力そのものが全く暴力的なのですから、封建君主の権力というのは暴力そのものです。いわゆる経済外的強制がその基礎です。労働を強制して賃金を支払わない。つまり支払わざる労働のほうが農奴労働の主体なのですからわずかに農奴が生産労働をつづけるためだけのものが与えられるにすぎない。中世の権力というものは、権力そのものが暴力的なのです。したがって、近代自由都市において封建権力が駆逐されると同時に、権力が、暴力的な権力でない市民的な平等の権力、平和な権力になってくる。それと同時に暴力が禁止されるのです。
 ところが、その後にこの自由都市共和制がくつがえされて、絶対君主制が成立したと同時に、暴力団の組織が現れてくるのです。また同じような状況がくり返されるたびに暴力団が現れて来るだけではなしに、政治上の決定的な条件になって来る。やくざの問題などでも、いまだに日本のやくざというのはテレヴィ(※リーフ注:televisionテレビ、テレビジョン)の主題です。よろめきとやくざとが現在の日本のテレヴィの二大主題と言ってもいいでしょう。これは両方とも関係があるのですね。それは、平等の夫婦生活の存在しないところに、よろめきが発生し、平等の権力がないところに、暴力団が発生する。平等のない日本のテレヴィは、毎日、午後のひとときはよろめき、奥さんたちがあれを見て、夕方からは暴力団、旦那がそれを見ている。そして日本のテレヴィ評論家は、そういう全体的なテレヴィの傾向について評論することができないらしい。どうしてもよろめきと暴力団とこの二つよりなにも深刻な問題ではないのです。要するに、警察が権力的であり暴力的なのです。それから、非合理な権力、というのは、天皇制がもっとも非合理な権力です。天皇制が日本国民統合の象徴だというのは表面であって、論理的に言えば、天皇制は日本における非合理な権力の象徴です。したがって、警察官はいつなんどきでも天皇の警察官となりうるのです。したがって暴力団はつねに天皇制の復活を主張する。いまでも、議会制度擁護国民同盟というのが大分この選挙でも東京で立候補していますが、あの演説を聞いたかたもあるでしょうが、第一は憲法改正です。第二は天皇制の復活、これがどうして議会制度擁護ということになるのか、実に非合理でしょう。これがそのさきに行くと問答無用となるのです。殴られてしまうのです。わかわなければ、わからせてやるというのです。選挙に大ぜい立候補するには相当金がかかるが、その金はどこから出て来るかというと、大体会社・銀行です。いま東京都においてもっとも大きな建築をしている銀行は、同時に暴力団に金を出している銀行なのです。
 現在の日本の政府の与党である自由民主党と暴力団の関係は、その議員のなかに暴力団の直接の関係者がいること、暴力団に花輪をおくる自民党議員がたえないことなどばかりでなく。両者の活動資金が、その金額の大小の差などはあっても、同じところから出ていること、すなわち、それが日本の独占資本(※リーフ注:銀行資本と産業資本の癒着した資本。金融資本。)の系統にむすばれていることは、最近ではほとんど周知の事実となってきた。そして、暴力団が天皇制のほかに現在ではいわゆる日米安保体制すなわち日本を軍事的にアメリカの支配の下におく体制を主張しているのは、日本の暴力団の愛国主義としては矛盾しているが、これもそれらを背後から動かしている日本の独占資本とアメリカの独占資本との結合の矛盾をあらわしている。最近広島を中心として中国新聞が暴力団とたたかった事実をえがいたというドラマが現在の日本のテレヴィの低調のなかでいくぶん注目された。そこにこれらの背後の関係がえがかれることができなかったのも、日本のテレヴィや新聞などがまたおなじこれらの背後の関係によって支配されているからであろうが、そのために、この連続ドラマにおいても暴力団の根絶の方向がはっきりしないばかりか、実はドラマにもなっていないのです。オブキュスランティズム【※リーフ注:obscurantism 曖昧主義。 辞書的には<1.反啓蒙主義,開化反対><2. 故意にあいまいにする主義>】はドラマツルギイ【リーフ注:辞書的には < ドイツ語 Dramaturgie>。<英語dramaturgy>。<1.劇製作術[法]><2. (脚本・劇の)上演[演出]法>】にはならないのです。これらの関係のために、日本のドラマそのものも発展しない、また映画も発展しない。
 ぼくはこの研究会【リーフ注:精神神経学会(1966)における地域精神医学の分科会での羽仁五郎氏の特別講演「日本におけるコンミュニティ(リーフ注:コミュニティ)の概念について」があり、そこで「コンミュニティ」や「地域」という概念が流行語となっているが、その概念が正しくないことを羽仁五郎氏が指摘した。その学会での講演の続きを聴こうということで発足した研究会】の第一回か第二回に、家族からの解放によってコンミュニティが成立し、都市が成立する、家族ファミリアということばはもとは奴隷ということであったという話をしましたが、そのことを左幸子君が聞いて、その講演はぜひ聞きたかった。自分はホウムドラマ(リーフ注:ホームドラマ)というものをやらされるたびに、これは一体なんだろうと、いくら考えてもはっきりしない、したがって演技が決まらない、じつに困っているのだが、このファミリアということばは奴隷ということだと聞いて、非常にはっきりした。ホウムドラマというものをどういうふうに解釈すべきかということについて、急所がわかってきたような気がする、“またその問題を扱うか”、というので、ぼくは、そんな問題ばかり毎回やっているわけにはいかない、といいましたが、この暴力団の問題、やくざの問題、非行少年の問題、これは日本ばかりではない、アメリカでも最近は日本以上にひどくなって来ているようですが、それらを歴史的に考えてみることによって、その本質的な問題がはっきりして来るところもあるのです。
 そういう暴力から全く解放されない都市に、また暴力が発生して来る。この都市が崩れていく。それはもうすこし詳しく考えて行く必要があると思うのです。
*−−−−−引用終了−−−−−−−−*

(了)

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